私の学生時代

芸人になる前、私は横浜国立大学で学校の先生になるための勉強をしていた。

6年かけて無事に卒業し、小学校と中・高音楽の教員免許を取得した。

 

だが元々先生になりたかったわけではない。

私は不登校経験者で、学校が嫌いだった。

私の学生時代

高校生

高校は地元横浜市の私立高校に進学した。だが女子校で周りに馴染めず1年次の冬から不登校になった。

結局、2年次の夏に通信制の高校に転校した。その後もダラダラと過ごし、現役のときは大学受験をしなかった。というよりも大学受験をするための学力が身についてなかった。

受験生

それでもやはり大学に行きたい。私は浪人して予備校に通うことにした。10か月間で高校3年間の勉強内容を頭に叩き込んだ。

そして迎えたセンター試験(当時)。自己採点では過去問演習のときより良い点数が出た。今までの頑張りが実を結んだと思った。

 

しかし。

志望校の倍率が跳ね上がっていた。

 

どうしよう。このまま受験すべき?

 

いや、一年間頑張ってきたんだからここで諦めてどうする。覚悟を決めようとしたそのとき、母が横浜国立大学を勧めてきた。横浜国大の教育人間科学部は音楽の先生を養成する学科があり、音楽の実技でも入れるようだった。

 

学校の先生になる学科ってこと?

 

でも国公立の中ではここくらいしか入れそうな学科はない(私立はお金がかかるから嫌だった)。今まで学校から逃げ回ってきたバチが当たったと思った。目の前が真っ暗になった。

 

しかしまた浪人して両親に迷惑をかけるわけにはいかない。加えて2浪して2つ下の弟と同学年になるのが嫌だった。国大は地元の大学だから通いやすいし悪くないかもしれないという気持ちも少し芽生えていた。

 

私は迷った末、横浜国立大学を受験することにした。

 

私の受験した学科は『センター試験の成績』+『ピアノや歌の実技の成績』を合わせて合否を決める形式だった。センター試験の結果はA判定だった。

2次試験は実技審査のため、家でピアノや歌、聴音(音楽を聴いて楽譜に起こすもの)の練習をした。ただピアノや歌は一日中練習できるというものではないので(腱鞘炎になったり喉を痛めたりする危険性がある)、2次試験まではある程度時間に余裕ができた。

 

受験が終わったら遊ぼうと思って買っていたゲーム機のPS VITAを開封した。乙女ゲームを二本クリアした。

 

受験を控えたある日、試験会場までの下見で横浜国大まで行ってみた。高校生の頃、「国大は和田町(※相鉄線の駅)にあるらしい」という噂を聞いたことがあったのだが本当だった。言われてみれば和田町は快速も止まらないのに多くの人が行き来していることに気づいた。何となく山手(※中華街付近の裕福なエリア)あたりにあるのかなと思っていたのだが間違いで、国大は最寄り駅から20分歩いた坂の上の森の中にあった。

 

受験当日。二次試験での実技審査はほとんど緊張しなかった。アシスタントの学生と雑談できるほどリラックスしていた。私は試験を舐めていた。

 

それでも合格したときは嬉しくて涙が出た。母やずっとお世話になっていたピアノの先生も喜んでくれた。

 

こうして私は、横浜国立大学に通うこととなった。

大学1年次

大学1年生の頃はそれなりに楽しかった。学部の授業では「各教科の教え方を学ぶ」というよりも「自分が各教科を学ぶ」という内容が多かった。

勉強は嫌いではなかったし、バイトやサークル活動にも積極的に参加して毎日が充実していた。

大学には『地域ネコ』ならぬ『大学ネコ』がいっぱいいて可愛かった

大学2年次

大学2年生になると、各教科の教え方の授業が多くなった。全く興味のない授業ばかりになった。大学を辞めたいと何度も思うようになった。授業を受けるモチベーションもなく、比較的真面目に授業を受けていた1年次とは異なり、「最低限単位が取れればいいや」と思うようになった。サークル活動からも徐々に足が遠のいた。

 

そんな中唯一の楽しみだったのが、第二外国語の授業。1年生の頃に取っていなかった第二外国語の授業を受け始めた。仲の良かった先輩がフランス語の授業を取っていたので私もフランス語を選択することにした。軽い気持ちで決めたこの選択により大学4年次にフランスへ留学するまでに至るのだが、この話はまたいつか。

 

教育を学んでいる学生はクラスで私だけだった。クラスには他の学部の人、留年している人、色々な人がいた。同じ専攻には学校の先生を目指している学生たちばかりだったので、他の学部の人たちばかりの第二外国語のクラスはなんとなく居心地が良かった。

大学3年次以降

大学3年生になった。小学校の教育実習が始まった。

人生で一番つらい経験だった。毎日8時に登校して、毎晩8時に帰る。

今まで授業を真面目に受けなかったツケが回ってきた。授業のやり方が一切身についていなかった私は、実習日誌を書くのも授業計画を作るのも遅く、授業もままならなかった。

 

学校の先生になるつもりもないのに、何のために実習に行っているんだろう。でも免許を取らないと卒業できないから行くしかない。先生方や実習先の子どもたちに対して感じていた引け目は、芸人になった今でも消えない。指導教員の先生が毎日クマを作って登校されていた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

教育実習の最終日は指導教員の先生と子どもたちがお別れ会を開いてくれて、思わず泣いてしまった。泣いてくれた子どももいた。校長先生も泣いていた。

 

その後色々あって2年留年しながらなんとか大学を卒業(この話はまたいつか)。私は教員にはならなかった。

 

 

 

教育実習生だった頃、先生方からは「子どもたちにはとにかく分かりやすく話しなさい」と何度も言われた。一文は短く、大きな声でゆっくりはっきり話す。

この経験、何かに生きていると思わないだろうか。

お笑いである。

 

学校の先生はピン芸人と一緒。一人で舞台(教壇)の上に立ち、大勢を惹きつける。養成所も大学お笑いも経験せず芸人になった私にとって、教育実習が大勢の前で一人で話す唯一の経験。あんなに嫌だった教育実習で、ピン芸人としての基礎を学んでいたのかもしれない。

 

あと、シンプルにメンタルが強くなった気がする。芸人になってから辛い経験をしたことは何度もあるが、その度に「でも教育実習より遥かにマシ」と思っている。

最後に

今では横浜国大を卒業して良かったと思っている。結果論だが、私の学生時代は芸人になる前の準備期間のようなものだったのかもしれない。

学生時代を思い出すことは少なくなった。でも、確実に今に生きている経験だと思う。